卒業旅行記03_【バルセロナ-ベッド争奪戦-】
バルセロナにあるエル・プラット空港に着いたのは、旅行2日目の夜18時頃だった。
バルセロナでは4日間の滞在を予定していたから、ホテルから各観光地に行けるように拠点となる1つのホテルを4泊分を予約していた。
ホテルは、空港からタクシーで20分程のサグラダ・ファミリア近くに取っていた。
5人乗りのタクシーはなかなかない。エル・プラット空港で20分程待ち、少し大きめなワゴン車のタクシーに乗りホテルへと向う。パンパンのリュックとキャリーケースにたくさんのパリ土産が加わっていたので、タクシーの荷台を開けてもらい荷物を詰めた。
タクシーでは、敢えて遠回りをして金額を余分に請求されることを恐れたビビリの俺らは、GoogleMapを開きながらホテルまでの道中を過ごした。
余分に請求されることはなくホテルの目の前でタクシーを下車し、客室へと入った。
ホテルは5人部屋を予約していた。
4日間滞在することもあって、広めの客室だ。客室にはダイニング、リビング、キッチン、洗濯機、シャワー室、バルコニー、更にはwifiまで完備していた。
思ってたよりも広く綺麗な部屋にテンションが上がった。リビングに荷物を降ろしてから部屋の中を探ぐると、3つの寝室があることに気がついた。
3つ?俺らは5人だ。
どうやらその部屋はファミリー用で、シングルベッドの寝室が1つとセミダブルベッドの寝室が2つあった。
5人で1つの部屋であれば、さほど問題にはならなかっただろうが、4畳程の部屋にある1つのセミダブルベッドで男同士2人が寝ることは、いくら仲が良くても嫌だ。
もちろん贅沢は言ってられないので、我慢するのが濃厚であったが、友弘がそこである提案をした。
「俺らは建築学科だ。床に寝るのも、椅子の上に寝るのも慣れっこだろ?今からババ抜きして、買った人から部屋を決めていこう」と。
「男子は馬鹿な戦いが好き」というのは、いくつになっても変わらない。全員が了承して、ベッド争奪戦のババ抜きが始まった。もちろんトランプは持参している。
1位は少し広めの部屋にあるセミダブルのベッド。
2位はシングルベッド。
3位は4畳程のダブルベッドだが、マットレスが分割出来る仕様だったので、片方のマットレスを5位に貸す。
4位はリビングにあるそれ程大きくはないソファ。
そして、5位はダイニングにある5つの椅子を並べて、3位から借りたマットレスを引く。
結果から言うと、俺は4位。1位は海くん。2位は友弘。3位は田畑。そして5位は辻谷となった。
こういうのは言い出しっぺが最下位になるはずだが、北里研の大敗だった。
辻谷はどんなに眠くても、みんなが順番で風呂に入りダイニングでの談笑を終えて、各部屋に行って始めて、寝床を作らなければならない。俺はソファに腰掛けるだけなので楽だったが、椅子と言うベッドで4日間過ごすことになった辻谷を東研究室のみんなは不憫だと思ったのか、必要のない枕や掛け布団を貸していた。
気付いた時には、どっちが最下位かわからなくなるほど辻谷のベッドはふかふかになった。
俺と辻谷の寝床はリビング・ダイニングにあるため、みんなが各部屋に入り静かになった後でも、しばらく話していた。バルセロナ担当である俺は明日の予定を相談していたのだ。
明日は「ガウディ巡り」の初日。この旅行のメイン計画の1つだった。
アントニオ・ガウディは知らないものはいないと思うが、明日はまず念願の完成間近と言われていたサグラダ・ファミリアに行き、お昼を食べてからタクシーでグエル公園に行く。そしてカサミラの集合住宅を見学をして終了だ。無理して廻るよりかは、「意見を出し合いながらじっくりと見学する日」と考えていた。
建築旅行では感想や議論こそが大切だ。だから一人旅よりは、人数を確保して行った方が、自分が気づけなかったことも知ることができる。俺はその方が良いと思っているし、国内旅行でもそうしてきた。
まぁ、国内の建築ならまだしも、ガウディの建築を見て、何かを発見して意見を言えるほど、博識ではないわけだが。
そんな話を辻谷としていざ寝ようとした時、シングルベッドの部屋から友弘がリビングにやって来た。
「どうしたの?」電気を消すために立ち上がった辻谷は友弘に聞く。
「お土産。タクシーの中に忘れた。手提げバッグごと置いて来たわ」
友弘はタクシーの荷台に荷物を詰めた際、手提げバックをキャリーケースと側面に挟むように立て掛けたのだと言う。ホテルに着き荷物を降ろす際、タクシーの荷台には電気がつかなかったので、そのまま置き忘れたそうだ。
「まじ?イタリアでのチケットは?そこに入れてなかった?」
お土産なんかどうでも良い。それよりスペインの次の1週間で使うチケット類が、俺は2人は心配だった。
「それは大丈夫!空港で忘れそうだなって思って、チケットとかは全部リュックに入れたから」と友弘は答えた。
「そうなんだ」
「まぁお土産なら、また買えるし、明日タクシー会社に電話してみたら?」
「うん。そうするわ。せっかく買った絵が見つからなかったら辛いわ。」
と友弘は悔しそうに言う。
言い出しっぺが負けるジンクスは、ベッドよりも重くなって返ってきた。
卒業旅行記02_【パリ-エッフェル塔のスリ-】
びびりの俺らは海外に対する防犯対策だけは完璧だった。
電車の中に現れる妊婦のスリだとか、子供たちの集団スリだとか、ミサンガを巻きつけてお金を請求して来るやつだとか、日本人を見て「ヘイ、長友〜」と話しかけて来るイタリア人は危ないとか。
いつスリと出会っても良いように、パスポートは首からぶら下げ服の中に締まっていた。極力リュックでは外出しないようにしたが、今日のように観光した後すぐに空港に向かう日なんかは仕方ない。そんな日はリュックのチャックに南京錠をすれば問題ない。これで、スラれることはないのだ。
海くんの一悶着の後、地下鉄で電車に乗り、凱旋門の最寄りの駅で下車した。初観光地ということもあってたくさんの写真を撮った。地図で見る通り凱旋門を中心に放射線状に道路が延びている。行って辺りを見渡すと、よりここが世界の中心のように感じられた。
雨が降っていたせいもあったが、セーヌ川はとても汚かった。これではいくら恋人同士が愛を誓って鍵を落としたとしても、結婚する前に引き裂かれそうだと感じた。
エッフェル塔とは、パリにランドマークをつくったギュスターブ・エッフェルという設計者及ぶ建設者の名前である。はじめは、パリという芸術的な街に、このような鉄骨の塔が必要なのか。建設反対派の芸術家たちは猛反対し、連名で陳情書まで提出していたらしい。パリでエッフェル塔を見なくても良い場所はエッフェル塔のみだとし、「エッフェル塔が嫌いな奴はエッフェル塔に行け」ということわざまであるほどだ。
ただ、今やエッフェル塔はパリの立派な象徴だ。
最初は合わないと思っても、月日を追うごとになじんでくる。建築の中でもランドマークという存在は、反対されるくらいのがちょうど良いのかもしれない。
俺たちは汚いセーヌ川に架かるエッフェル塔の正面の橋を渡ったところで、パリの女性たちに話しかけられた。10代だろうか。小さい子もいた。
「いきなり来たか」そう田畑がつぶやく。
スリの情報収集は田畑の担当だった。エッフェル塔付近では、このような幼い女性が集団で行うスリがいるのは調査済みだった。
その中では少し年を取っているであろう女性が俺をターゲットにしたのか寄ってきた。もちろん言葉は通じないし、向こうも通じていないのは理解している。ひたすら話しかけながら、隙を伺っているのだろう。
20mくらい歩いたとき、俺のコートの内ポケットに手を入れてきた。
もちろんそこには何も入ってない。
「残念。そこに財布はありません」俺は日本語でそう言ってやった。
その女性は俺のコートの内ポケットに財布がないことを確認すると、舌打ちをして、海くんのほうに駆け寄った。
お金持ちの海くんは女好きでもある。
嬉しそうな顔。ただ海くんの財布も南京錠で閉じられたリュックの中だ。
俺らのビビりは、いきなり役に立った。
その後、パリのノートルダム大聖堂に行き、ポンピドゥーセンターに行き、見学時間の終了を迎えた。もっと廻りたかった。近くにこんなに重要な建築物がたくさんあるのに、時間は無情にも迫っていた。
パリだけだったらいつでも来れる。そう言い聞かせて、俺らは空港へと向かったのだった。
昨日も来たシャルル・ド・ゴール空港では、パリのお土産を漁る。ビビリの俺らは搭乗時間にも余裕を持っていた。
パリの滞在時間は数時間なのに、沢山のお土産を買った。最初だったということもあるが、パリに数時間しかいれなかったことが悔しかったから、その分お土産で満たすことにしたのだ。
そこで、友弘は小さな絵を買った。街もセーヌ川もとても綺麗な淡い色で塗られた水彩画だ。とても素敵な絵だったし、友弘は満足気だった。
その日のうちにその絵をなくすことも知らずに。
卒業旅行記01_【パリ-金持ちの不幸-】
卒業旅行では、まず成田空港からパリにあるシャルル・ド・ゴール空港への直行便を取ることから始まった。
予定では王道(フランス・イタリア・スペイン)5日づつ合計15日間の旅行にするはずだった。
ただ、シャルル・ド・ゴール空港への直行便を5人分予約した2日後、フランスのパリで大規模なデモ運動が起きた。
「パリは危険だ」と判断せざるを得なかった。一緒に行くメンバーの海くんのご両親から、パリは辞めたほうが良いという話を聞いて、決して無理はしたくない俺たちは、パリの滞在期間を5日から1日に変更した。パリへの直行便をキャンセルするのは面倒だったし、パリ市内の観光スポットに少しでも行きたおきたかったから、シャルル・ド・ゴール空港への到着日と次の日の午前中のみをパリ滞在期間としたのだ。
そして翌日の夕方のバルセロナ行きの航空券を予約した。
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パンパンのリュックサックと大きすぎるキャリケースをもって、5人はフライトの2時間前に成田空港に集合した。
空港内のレストランでみんなでお昼ご飯を食べ、海くんと免税店で1カートンのたばこを購入してから、搭乗手続きを行なった。パリまでは13時間かかる。
海くんは大学の同級生だが、2浪しているから年齢は俺の2つ上だった。
基本的には良いやつだが、なかなかのお金持ちだ。実家は普通のサラリーマンだったが、サラリーマンが成功したタイプという、意外と珍しいタイプのお金持ちだった。
服装もそうだが、キャリーケース1つを見てもお金がかかってそうなおしゃれなタイプで、他の4人は4輪タイプのものに対し、1人だけ2輪のタイプだった。使いやすさというよりはおしゃれを優先したタイプのものだ。きっと高いのだろう。
成田空港で飛行機に乗り、13時間を飛行機の中で過ごす。
パリに着いたのは現地時間の19時。外はすでに真っ暗だった。
しかも空港には、大規模デモの影響が強く、銃を持った警官がたくさんいた。
事前の下調べで、夜は危険ということもあり、外食はせずにとりあえずホテルへと向かった。
空港からホテルの最寄り駅まで電車で行ったが、シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内のホテルまでの道中では、停電する区間があった。その区間に差掛かるといきなり電車内の照明が落ち、外の街頭も消えている。俺らビビりすぎの観光客以外の地元民は平然と当たり前の顔をしていた。日本では考えられない。
ホテルに着くと、停電区間という初めての体験。海外の洗礼に外出が面倒になった。ただ何も食べないのは悲しい。仕方なくホテル徒歩5分にあったマクドナルドへ向かった。
電気は付いているし、客も中にいる。
だが、扉には鍵がかかっていて入れない。意味が分からない。
少しイラつきながらも困っていると、店員が中から鍵を開けてくれた。
どうやら大規模デモのため、18時を過ぎると中から鍵をかけることにしていたらしい。マックではチーズバーガーを持ち帰りで購入し、ホテルで夕食を済ませるとすぐに眠ってしまった。これが初ヨーロッパの1日目だ。
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次の日、朝の7時には電車に乗って、初観光に出かけることになっていた。
「パリ」の担当は海くんだ。俺らは旅行で行く主要都市によって別々の幹事を決めている。
俺はバルセロナ。辻谷はマドリード。友弘はミラノとヴェネツィア。田畑はローマとヴェネツィアだった。海くんはパリとイタリア班のサブと決まっていた。
今日の夕方18時には飛行機でバルセロナに向かうから、パリの幹事は1日のみだった。パリでは王道過ぎる観光地のみにすると事前に決めていた。
建築学生であれば、本当はル・コルビジェも少し足を伸ばしてスイスにあるSANAAのラーニングセンターも行かなければ許されないが、観光時間が1日しかないため、それは不可能だった。
初めてのヨーロッパ。久しぶりの海外。切符の買い方にも混乱した。
やっとの思いで凱旋門の最寄り駅までの切符を手に入れ改札内へと向かう。
改札は、なんて言ったらよいのだろう。
日本のディズニーランドの改札みたいに、3つの棒を回転させて通る形式だった。俺は、不安に思いながらも最初に改札をくぐった。
そのとき、「ガッ!!!」という鈍い音と共に、
「えっ」と言う海くんの声が聞こえた。
焦って後ろを振り向くと、海くんのキャリケースの取っ手部分が3本の棒の1本に引っかかっていた。引っかかるというか、棒が取っ手に入り込んでしまっている。
それに比べて他のメンバーは問題なく改札に入れている。
「Why?」海くんは言う。
俺らのキャリケースの車輪は4つあり、水平にして移動できるのだが、お金持ちでおしゃれなの海くんのキャリーケースは2輪のため、どうしても斜めに傾けなければ移動出来ない。そこが盲点だった。
見事に引っかかった。絶対解けない知恵の輪のように。
初のヨーロッパ。初日の朝。早くも問題発生。
もうみんな改札の中に入ってしまっているため誰も助けられない。
「help meー」と海くんは叫ぶ。
俺らは笑いながらも、なんとかして駅員さんを呼ぼうとした。改札の横にあった電話を手にした時、通勤中の女性が海くんの引っかかっている改札に入り、力任せに棒を回して助けてくれたのだった。
その女性は「thank you」と力のない海くんの声が聞こえていたはずだったが、さっさと階段を降り、ホームへと去って行った。
その対応に海くんも笑わずにはいられなかったし、何より顔がホッとしていた。
困ったのが他のメンバーだったら、俺らはもっと早く、丁寧に助けたであろう。
お金持ちの不幸は面白いのだ。
卒業旅行記00_【王道か北欧か】
修士論文の提出及び発表を終え、あとは卒業旅行を残すのみとなっていた。
俺の研究室には同期が3人いる。上森正樹と辻谷裕だ。
その2人と一緒に卒業旅行に行く予定を立てていた。
もっぱら旅行先は北欧が良い。
2週間も海外へ旅行に行ける機会なんて就職したら、新婚旅行以外ほとんどないだろうからこの際北欧(スウェーデン・フィンランド・デンマーク)の建築を制覇したいと意気込んでいた。
俺はもともと研究室で北欧の建築家であるアルヴァ・アアルトとグンナール・アスプルンドの研究をしていたから、死ぬまでには実際に見てみたい思っていたのもある。
その意見に、2人も賛成してくれていたから、北欧に行くのは決まったも同然だった。
2月後半のある日、上森から「卒業旅行に行けなくなった」と連絡があった。理由としては金銭面だった。
彼の就職先は初任給12万円のアトリエであったし、学部時にバルセロナ建築研修に行っていたこともあって、親からストップが掛ったのだった。
将来の投資だと思えばなんとかできるのではないかと思わなくもないが、金銭的なことは他人がとやかく言うべきではないので、仕方ない。
ただ、2人で北欧に行くのは心細かった。
そんな時隣の研究室に所属している友弘から、「卒業旅行、一緒に行かない?」と誘われた。
もともと仲も良かったし、人数が多い方が楽しそうだ。
辻谷とも相談し、北里研と東研の5人で卒業旅行に行くことになった。メンバーは北里研究室からは俺と辻谷、東研究室からは友弘と田畑と海だ。
「どこ行こうか?」
一緒に行くことが決まった日、居酒屋の席で友弘が聞いた。
「俺らは北欧行こうと考えてたけど、どう?」
「いいね。行ってみたい」田畑が乗り気だ。
「でも寒いと思うんだよね。まぁそれでも行くけどね」と言った。もう全員の気分は北欧だ。
次の日、北欧に行ったことがある先輩に聞いた。先輩と言っても大学院の時に1年留学して、帰って来てからは同期として接して来ていた人だ。
その先輩かつ同期はとんでもないことを言い出した。
「3月に北欧はきついんじゃない」
「えっ。そうなんですか?」一応敬語だ。
「スウェーデンは-10度は当たり前だよ。私も行ったのは、夏だし、冬だと建築見れないかもよ。大雪で冬季休業!!」
これは、、、緊急会議だ。
アスプルンドの名作「森の火葬場」に行けないのであれば、意味がない。甘かった。「森の火葬場が行けないのであれば、違うところのほうが良いのではないか」俺はそう思うようになった。
いつもの居酒屋で友弘が言う。
「この際王道はどう?」
王道とは、卒業旅行で王道の3ヶ国フランス、イタリア、スペインのことだ。
「まぁそれもありかな」と思う。
2週間も行くのだから、3か国を駆け足で回ってもよい。
それでも北欧に行きたいと言う気持ちもある。きっと辻谷も迷っている。王道でも良いような気もする。結論が出ないまま時間だけが経過した。
「多数決取ろう」痺れを切らした海が言う。
【王道か北欧か】どちらが良いと思うか。いよいよ腹を決めた。
エンターテイメント性を考慮して、匿名で居酒屋の席においてあるナプキンに王道・北欧のどちらかを全員が書き、集めて開く。多い方に行く。
結果【王道4票、北欧1票】。王道に決まった。
「おい。みんな王道かよ。俺だけ北欧。」田畑が笑って言う。
予想に反して、俺だけでなく辻谷も「王道」を選んでいた。
寒すぎるのは辛い。
学生時代に建築コンペで200万稼いだ方法_02【メインパースこそがコンペ勝利への鍵】
今更ではありますが、自己紹介を少し。
私は決して建築設計のセンスがあるわけではありません。また、小さい頃から建築が身近にあったわけでもありません。
なんせ私の父親は体育教師なので、バリバリの体育会家系です。
学校の授業では、もちろん体育には自信がありましたが、勉強も嫌いではありませんでした。数学が得意と言う理由で理系に進み、気づいたら建築学科に入学していました。
「建築なんてつまらない」
それが大学2年生を終えた私の感想でした。
ただ設計の課題で選ばれたりすると嬉しくなり、もともと重度の負けず嫌いでもあったので、「評価されたい」という一心で知識の習得とロジックを見つけることに全力を注いでいました。課題で選ばれないことがただ悔しかったんです。
大学3年生の後半からは【毎日一建築】を始め、知識がついてきたと同時に課題でも選ばれるようになり、建築新人戦で同年代の全国大学生の100選にも選ばれることができました。
卒業設計を経て、大学院に進学し、大学院時代ではコンペで200万程稼げるようにまでなったんです。
決して建築設計のセンスがあったわけではないと書きましたが、コンペにおいても始めは負け続けました。
それでもコンペに挑戦していたのは、先輩の背中があったからです。
私が通っていた大学では、コンペ黄金世代と呼ばれる先輩たちがいました。私の2つ年上の代です。
年間通じて全てのコンペで私の大学の名前が必ず1つあるという代でした。細かく言えば、受賞してないコンペがあったのかもしれませんが、有名どころのコンペではそのほとんどにうちの大学がありました。
それを身近に見てきたからこそ、建築学生であるならば、コンペをやるのは当たり前だし、賞をもらうことに意義を感じていたんです。
私たちの代でも、それなりにはコンペに受賞していたと思いますが、その黄金世代に比べれば少数でした。
今回は、その黄金世代である一人の先輩に「どうしてここまでコンペに勝てたのか」と聞いた話を書いてみようと思います。
これは私も実際には実践してはいません。あくまでその先輩のやり方ですので、自分に合っているかもと思った方は実践してみると良いかと思います。
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【メインパースこそがコンペ勝利の鍵である】
コンペに挑戦したことのある方なら当たり前のことかもしれません。
それでもまずは、コンペの紙面で70%を占めるであろうで「メインパース」についての私の主観を書きます。
もちろん「メインパース」とは、コンペの提出する紙面上で、最も重要な絵であることは間違いありません。だからこそ最も魅力的である必要があります。
【何をメインとして魅せるか】
「メインパース」と言っても何を魅せるか、それは人によっても案によっても違います。
設計した建築の鳥瞰パースを載せる人もいれば、断面パースや平面パースを書く人もいます。中には平面図をメインとして載せる人もいましたし、細かな絵を沢山載せる人もいます。
ただ、共通して言えるのは、紙面の大半を埋めるメインパースは魅力的で無ければならないということです。
アイデアコンペですので、そのメインパースと説明文だけで受賞する人もいます。
審査員側からすると、何百と来るシートを数時間で数十作品に絞る必要があるので、魅力的だと感じない提案は、読まれない可能性もあります。
それだけメインパースは重要ということは揺るがない事実です。
私もコンペに取り組む際はメインパースに時間をかけるようにしていました。
メインパースを作成する上での優先度は、
魅力的な絵 > 案を最も分かりやすく伝えられる絵 > ただの鳥瞰パース
だと思います。
コンペの進め方として、アイデアをベースに案を作り込み、それを一番分かりやすく伝えるための絵を考えるわけですが、
「紙面で最も重要なメインパース」の作成では、
これまで作ってきた提案を一度忘れて、
この提案の中で
「最も魅力的に見えるの絵は何か」
こういう視点で考えるのもコンペを勝つ手法としてはありかなと思います。
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最後に、その先輩のやり方について聞いた内容を書きます。
まず、コンペ要項を読んですぐに、
【メインパースから考え始める】
と言うのです。
もちろんアイデアはあるのでしょうが、紙面を作る上では、平面計画や断面計画をするよりも前に、「メインパースを作成する」と言っていました。
「今あるアイデアから、取り敢えず魅了的な絵を作る」
「そうすることで、設計することで提案に足かせがかけられる前に魅力的な絵を生み出すことができる」
「これは勝てるというメインパースが出来れば、コンペは取れる」
とまで言っていました。
あくまで、アイデアコンペなので、設計力が求められているものではないのは確かですが、コンペを勝つ手法としては面白いなと感じました。
【メインパースを作ってから、設計をする】
私は実践したわけではないので、それが良いかどうか判断は出来ませんが、その先輩はコンペだけで社会人1年目の年収くらい稼いだと聞きます。
設計力よりも画力を重視した考え方を1つの方法として試してみてはいかがでしょうか。
学生時代に建築コンペで200万稼いだ方法_01【コンペで勝つためのアイデアの出し方】
前回のコラムでは、【建築コンペはやる意味があるか】について書きました。私の持論としては、例えコンペで負けたとしても提案する過程こそ意味があると思っています。
どんなに忙しかったとしても、大学院まで進学したのであれば建築に染まろうというのが私の考えです。
コンペを出そうか迷っている学生さんは、是非前回のコラムをお読み下さい。下記に貼っておくのでまずそちらからご覧ください。
【アイデアの出し方】には、2パターンある
1.アイデア並行型
並行型と言うのは語弊が無いように先に言うと、コンペ提案(要項が出た後)と同時にアイデアを考えると言う意味です。
当たり前だと思うかもしれませんが、2.アイデア先行型をお読み頂ければ違いは分かると思います。
つまりはコンペ要項を読んでから、アイデアを練り始めると言うことですが、その中でも私が意識していたことについてお伝えします。
それは、コンペに取り組む際、提案するしないに関わらず、【要項が出た瞬間(出来るだけ早い時期)に要項を読む】と言うものです。
要項は大体、コンペ提出の2、3ヶ月前くらいに出るので、早い時期に読むことで、普段の何気ない時にアイデアを焦らず考えられるというメリットがあります。
要項を読んだら、必ずノートにまとめます。
まとめるポイントしては、まず【テーマ】と【審査員が求めているものはどういうものか】ということです。
そして、普段からそのテーマについて考えながら生活します。私は焦って考えるよりも余裕を持って考える方が直接コンペに繋がりそうなアイデアは思い付くと考えています。
トイレでアイデアが出るというのは、リラックスしている状態だからと言われています。出来るだけ焦っていない状態でアイデアを練ることを行ってください。
アイデアが出たら、次にノートに箇条書きにするのですが、コンペ要項を読んで1ヶ月くらい経つと、少なくとも3案くらい出ます。
その中から、【どれが一番いけそうな案になるか】かを考えます。そして「これはこのコンペにあったアイデアだ」と思えた場合に、コンペに取り組むのです。
出来るだけ、コンペ提案のためにアイデアを出すと言うのではなく、良い案があるからコンペにぶつけるというスタイルです。
そうするために早い時期に読むことが重要なのです。
コンペで勝ちたいのであれば、一番やっては行けないのは、提出まじかになってコンペ要項を読み、提案書を作ることです。私もいくつかのコンペを提出をしましたが、この方法ではほとんど棒にも橋にも引っかかっていません。
コンペを提案するに際してやるべきことをまとめると、
・まず出来るだけ早い時期にコンペ要項を読む。
・審査員の求めていることをメモする。
・普段から案を考え、できれば3つくらいを箇条書きにする。
・更に3つを考えながら生活し、行けそうな案を固めていく。
・友人に話したりして、主観すぎる方向を修正する。
・そして提出まじかに一気に作業し、提出する。
私自身もこの流れは意識してやっていました。コンペを取る方法というよりは、守るべきことと言った方が近いかもしれません。
当たり前と感じる人は良いのですが、もしこういう方法で取り組んでいて勝てないのだとしたら是非試してみてください。
2.アイデア先行型
これは、1.アイデア並行型とやっていることは変わりません。共通して言えるのは、アイデアは出そうと思って簡単に出るものではないということです。
簡単に出るアイデアには先約がいます。
だからこそ、コンペとは全く関係なく、常にアイデアを貯めていく作業も必要です。
この方法はすでにあるアイデアをコンペ用に修正して提案するというものです。
ここではわかりやすくするために、私が実際にコンペに提案した内容をお伝えします。
これは私が実際に作成したモックアップです。
このコンペでは、身近な住空間(家具等の小さなスケール)でより良い空間を提案するというコンペでした。要はスケールが小さいものであれば、何をしても良いというものです。
私はこのコンペを取り組むよりも前に、
「火燵を街の中につくりたい」
と考えていました。
家族のコミュニケーションの場でもある古き良き火燵(こたつ)というものを街の中に造ったら可能性があるのではないかと思っていたからです。
そしてこれが、このコンペに合ってそうだと思ったのです。
このコンペでは2次審査で審査員の投票から4案まで絞られ、実施(モックアップ)を製作します。そして3次審査では、その原寸大の実物を見て最優秀を決めるというものでした。
私は「火燵を街の中に作る」というアイデアをコンペに合わせてデザインしていきました。
残念ながら、最優秀にはなれなかったのですが、実施制作費で約80万程度+賞金をいう形で受賞することができました。
コンペで勝つ場合には
・共通してアイデアを常に貯めておくこと。
・本当にそれが提出するコンペに合っているのかを見極めること。
それがコンペで勝つための必須条件です。
良い提案だけど、このコンペに合ってないのではないかなと思う案を作っている人がいます。案の定それは受賞できないことがほとんどです。
自分のアイデアと提案が「このコンペに合っているのかどうか」。客観的に見極める意識を持つだけでも結果は変わります。
アイデアは常に溜めておき、客観的に見極める時間を持つことが必要なのです。
学生時代に建築コンペで200万稼いだ方法_00【コンペはやる意味があるか
コンペはやる意味があるか。
そう考える学生さんも多いかもしれません。大学の課題で忙しいし、就活に有利といってもそんなに大層な差になるのかわからない。
確かに、ゼネコンの設計部や組織設計事務所に入る上で、そこまでコンペの受賞歴が重要かと言われるとそうでもない気もします。むしろ卒業設計の方が遥かに重要です。
もちろん学部で就職する人は卒業設計を入社試験時に見せることはないのですが、大学院卒が一部当たり前になっているゼネコンの設計部や組織設計事務所では、まず卒業設計を見ます。
それほど卒業設計は重要なのです。
コンペは参考程度でしょう。
それでも私はコンペをやる意味はあると思っています。可能な限りコンペは出した方がいいとも思っています。
このマガジンでは、私が学生時代にコンペをやっていく上で特に大事にして来たことや実際にコンペを取った時の手応え等をお伝え出来ればと思います。
また私の周囲にいた、いわゆるコンペキラーたちが何を考えていたのか、何を重要視していたのか、コンペで重要なことについてもヒアリングして、可能な限り書いていこうと思っています。
人にはそれぞれ特徴があるので、これを読んで皆さんに合うやり方が見つけられるようになればと思います。
具体的な内容の話は次回からとして、今回は前段としてコンペは学生時代に必要かという内容について書いてみようと思います。
なぜコンペを出すのか。
それは、、コンペこそ建築設計の原点であり、出題者の意図を汲み取る練習としてコンペでしか培えないものがあるからに他なりません。
大学の授業で与えられる設計課題や卒業設計とも違います。他者を説得できるアイデア力はコンペをやることでしか得ることが出来ないからです。
コンペというものは、簡単に言えば、【あるテーマに対するアイデア募集】です。
テーマは出題者側が決めますが、現在の社会情勢の中で重要に考えられているものから選ばれるのが一般的でもあります。
だからこそコンペでは建築計画(プランや納まり)よりも、出題者の求められていることを理解し類を見ない解決策を提案する力が必要になります。
コンペは勝たないと意味がない。
私の友人にもこう言っている人がいました。いくら案を出したからといって、評価されなければ意味がない。だからこそ自分がイケると思える案が浮かばない場合には、コンペは出さないというのです。
まぁ、ある意味間違ってるとは思いません。
建築業界では、匿名で指名されない限り、設計者はコンペで決められます。
施主が出すお題に対して、もっとも優れた案として認定されたもののみが設計することを許されるからです。
だから、選ばれなければ意味がないと言うのも一理あると思います。
でも、私は一概にそうとは思いません。
あくまでこれは学生コンペであって、実現されるものを前提としていないからです。
コンペ出題者のテーマを完璧に理解し、それに見合うアイデアを模索し、建築化する。
この作業はとても大変で労力が必要です。コンペを提出すると言うのは凄いことになんです。
だからこそ本気になればなるほど、色々なリサーチが必要だし、求められていることを察知し提案する能力は自然と身につくのです。
別に負けたって、そのテーマに対する知識と言うのは身につきます。だから知識を蓄える手取り早い手段としてコンペに取り組むことに意義があるのです。
もちろん勝てるに越したことはありません。
実際に私も数々のコンペに挑戦しましたが、負けることがほとんどでした。
中には、最優秀賞や優秀賞を頂けたものもありましたが、一部です。
挑戦しない限り仕事は貰えません。
だからこそ勝つために知恵を絞るのです。
コンペは勝つ負けるよりも、やることにこそ意味がある。
それが私の持論です。